ジーザスクライストスーパースター

劇団四季版を見たので、今度は映画版を見てみた。

キリスト教をモチーフとした作品に接するときには、いつも、そこに投影する経験とか文化とか思いとかといったものが不足していることを実感する。

無自覚にしろキリスト教的なアレコレがある中で育った人たちが当然のように持っている様々な種が、私にはない。
普遍的な個人的な事象はあるにしても、単純に、そこにある作品を見るしかないんである。

ジーザス・クライスト・スーパースター [VHS]

ジーザス・クライスト・スーパースター [VHS]

それでも、キリスト教のひとつの理解手助けにはなる。
この映画のイエスの影の薄さは、そのまま、実在のイエスも影が薄いからこそ周囲の人々がそれぞれの思いを強く投影していってキリスト教は形成されていったんだと思える。さらに、ラストでバスに乗って去っていくシーンは、多くの新興宗教はこのようにある種の熱狂が突然巻き起こり、バスで次の町に行くかのように、消えていく様に似ている。多くの巻き起こっては消えていった宗教から、キリスト教世界宗教に発展していった理由は、ただひとりバスから残されたイエスが象徴している。何事もなかったかのように過ぎ去っていくはずが、イエスは実際に磔刑になってしまった。そして、その事実だけを乗せてイエスを置き去りにして、バスは熱狂を世界中に撒き散らしに行く。

これは、キリスト教についてのひとつの解釈でもあるんだろう。